sadadadの読書日記

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常識を疑っていくことは非常識ではない

社会に暮らす人は誰しも様々な概念、規則の中で生活をしています。言い換えれば、それらの色眼鏡を通して『当たり前』と言われる社会を作っているとも言えます。当たり前を毎回繰り返せば、当然その当たり前には厚みが増してきます。いくら知識、経験が増えても、同じ概念、規則の中にいては、自分の常識は益々厚くなり世界は閉じていきます。そして年齢を重ねれば重ねるほど、経験を積めば積むほど『当たり前の壁』が高く厚くなっていくのです。自分の殻は自分が作っているのです。

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義

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1 他人の殻に覚える違和感も自分が作っている

言葉、文化、宗教が違う場所ではただでさえ違和感を覚えます。そんな違う場所で暮らしている人同士が話をする機会があるとき、本当の『違い』を直視することになります。『当たり前』が異なっているのです。この違いを目の当たりにして採る行動は2つに分かれます。拒絶するか受け入れるかです。自分の当たり前を押し付けて片付けてしまうか、再度、自分の常識を問い直してみるかは当人次第といえばそうなのですが、相手を理解するためには相手の側に立って同じメガネを使って物事をみる必要があることだけは確かです。

2 常識は何のために存在するのか

いわゆる常識がまだ無い子供達は素直に行動することができます。『当たり前』が少ない人ほど、物事に制限なく実直に取り組むことができるのです。しかし、そんな常識が少ない人でも沢山の当たり前の中で暮らしていくうちに考え方、行動様式が固定化されていきます。そうしてできた常識の数が多いほど、非常識の数も増えます。そして非常識が増えてくれば、相手の常識を理解するために大きな葛藤を必要とするのです。そんな常識は何のために存在するのかを考え直してみる必要はありそうです。

3 常識はメガネの『数』で変えられる

同じモノでも見ている人が違えば違います。色眼鏡をかけて同じように見ろというのは視界を強要する行為に他なりません。そのようなことをしても、相手の常識を変えることなどできないどころか、相手にとって非常識な行為を強要すれば争いに発展しかねません。自分の常識に依存することなく物事を捉えることは至難の業ですが、メガネを架け替えることですこしでも角度が変えられるならそれはやってみるべき価値はあるはずです。先入観で立ち止まってしまっては得られるものも得られません。メガネも使い続ければ必ず古くなります。まずメガネを変えるべきは自分なのです。

4 常識を疑っていくことは非常識ではない

変化が早い時代、場所において常に自分を新しく更新していく重要性は益々増していきます。そのためには、原点に立ち返って素直に自分の常識を疑い、自らの慣習と先入観から距離を置くことが出来なければなりません。情報をさまざまな角度で正確に読みとる力を支えるメガネに偏向レンズが使用されていればどうなるのかは明白です。自分からフィルターをかけて目隠ししてもそこにあるものは存在しています。見て見ぬふりをしていれば、本当になにも見えなくなってしまいます。


常識とは人が18歳になるまでに集めた偏見のコレクションである。
アルベルト・アインシュタイン

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