sadadadの読書日記

読書した本のまとめ、読後所感、考えたこと



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教えないという教育法 - 教えることが上手な人の5つの教え方

子供や新人に対して教えることは山のようにあります。しかし、教える側の都合で無理矢理、教えたとしても労多くして功少ないことが多いものです。いくら努力して頑張って教えられる側が学ぶ気がなければそもそも意味がありません。しかも教える側も教育に割ける時間や手間は無限に有るわけではありません。つまるところ『どのように教えるか』を考えなければ教育効果など期待てきないのです。

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スパルタ式教育法の功罪

誰も助けてくれない環境で、どうにかせざるを得ない状況を作り出し、ギリギリまで追い込む。そのような場合において生き物は2つの選択肢を選ぶことになります。全てを捨てて降参して諦めるか、潜在能力を最大限に引き出して立ち向かうかです。特に目標や護るべきものある場合においては、逆境は成長に強く作用します。ある意味で生体反応を利用した教育法は、スパルタ式教育法と呼ばれ、昔からあらゆる場面で利用されてきました。この方式は比較的簡単に成果が出ることが広く知られています。しかし、スパルタ式には功罪があることを忘れてはなりません。

セブン-イレブンの仕事術

セブン-イレブンの仕事術

1 スパルタ式教育法の罪

  • 1 制御が難しい

スパルタ式教育法には『型』が必要です。追い込んでいくためにはそれなりの型がなければ、爆発する先がどこに行くか分かりません。走り出すまでにムチを振り続けなければなりませんし、一度走り出したら走り出したで、少しでも気を緩めれば危険極まりない方向であっても突っ込んでしまいます。勢いがあればあるほど、修正するのも、歯止めをかけるのも難しいのです。

  • 2 感じなくなる  

苦しみや痛みを感じるのは「生き残る」ための生体反応です。不断な、この生体反応によって身体の危険を感じるようにしているのですが、あまりに過重な負荷をかけられるとこの生体反応が効かなくなります。これは、脳に対する危険信号が一定の水準を超えるとこれ以上、生体反応を出しても意味が無いと判断してリミッターを解除するからです。そのリミッターが外され続ければ危機に関しても「鈍感」になるのです。

2 スパルタが滅んだ理由

恐怖心を持たず、焦りもしないのは戦う上で必要なことですが、裏を返せば危機的な状況に陥ったときにそれを危機と認識できない恐れがあります。勇猛果敢な突撃を繰り返す軍隊には理屈など必要ありません。むしろ『しごきまくればモノになる』という考え方には理屈などは邪魔でしかありません。合理的な判断を軽視しても問題視されず、不条理なことでも、すべて「努力、根性、気合が足りない」で片付けられてしまえれば最強の軍隊であっても滅びるのは目に見えています。

3 真のスパルタ式教育法は指導者にとって厳しいもの

スパルタ式教育法には、常に主従、命令服従、上下関係がつきまといますので指導者とって都合の良いものになりがちです。しかし、少しでも怠慢を認めればすぐに暴走をし始め、ムリムダムラを生み、崩壊に向かうことを認識しなければなりません。どんなに厳しい状況においても冷静に理論を立てて合理に物事を進めていく発想を持ち、不条理な状況でも条理を組み込んでいく、そんな思考をもっていない人には、スパルタ式教育法を使う資格は無いのだと思います。


逆境に勝る教育はない。
ベンジャミン・ディズレーリ

あなたが勉強したほうがいい4つの理由

あなたは勉強をしたほうがいい理由を答えられますか。納得のいく答えを用意できない人は、いま勉強していない人です。勉強している人は、多くの理由を抱えています。しかし、その理由を知った時期が遅かったという人が大半だと思います。勉強しなければならない理由が、誰にとっても遅かったと認識されるのは何故でしょうか。それは勉強する意味を考える前に勉強させられていたからに他なりません。その理由を、これから学んでいく人に伝えることには大きな意義があります。

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世界で通用するフィンランドの教育法

世界に通用するためには、専門的な力も必要ですが、それを表現するプレゼンテーション力、自分の考えを伝える論理力、より有利に交渉するための折衝力等が重要視されています。しかし、そういった能力は今になって急に求められ始めたわけではありません。昔から阿吽の呼吸を求める『ムラ社会』で、掟、慣習、空気等で縛りつけて、まともに討議してこなかった閉鎖的な環境が日本のコミュニケーション能力を低下させる原因に他なりません。今後のますますのボーダーレス、グローバルな世界を迎えるにあたって、ムラ社会からの脱却を決意し、普遍性の高い能力を養っているフィンランドから学ぶところは沢山あります。

受けてみたフィンランドの教育

受けてみたフィンランドの教育

1 フィンランド教育の考え方

フィンランドは人口も資源も乏しい国です。ですから個々の能力と資質を高めて一人当たりの生産性をあげるしかなく、生き残るためには世界でも通用する普遍的な教育が重要と考えています。その教育方針は個人に対してコミュニティ、組織、社会が行う責任があるというコンセンサスを前提にしており、教育を取り巻く環境についても多くを言及しています。教育に対してコミュニティ、組織、社会が権利を持ってしまえば、日本のように掟、慣習、空気等が蔓延し組織の論理優先の息苦しいものになってしまいます。ですから、責任はあるが権利はないことを強く強調しているところが印象的です。

2 フィンランド教育方針

  • 1 学校は勉強するところである

学校とは勉強するための場所であることが徹底されています。友達との関係や、集団生活、しつけや道徳を学ぶところ等、日本のようにあれこれ多機能を求めていないため、教育者も生徒も学業に専念することができます。勉強することに意識が集中させることでその教育効果を最大に引き出すことができるのです。曖昧で多くを求める教育では何が目的なのかを見失いがちになり、教える側も教えられる側もそれぞれに学校に対する目的が異なれば多くの無駄が生じることは必至です。

  • 2 義務教育にも留年がある

学費が無料ですから、留年しても家計を圧迫しません。また受験も無いためマイペースで勉強が出来ますが、基準に達していなければ義務教育でも留年があります。そもそも段階を踏まずに進級しても、分からないままの意味の無い時間を無駄に過ごすことになります。『知るは一時の恥、知らぬは一生の恥』で留年は当然のことと受け止められれば、そういった理不尽は無くなる筈です。タテマエの学歴などあっても仕方有りません。勉強したい人は、いつでもどこでも学習できる環境がそこにあれば、真の実力が身につきます。日本のようにとりあえず進級させて落ちこぼれを蔑み放置する仕組みは存在しません。

  • 3 すぐに進学しない

また、やりたいことを見つけるために、すぐに進学しません。進学はあくまで選択枝の一つです。あせらずに進路を決めさせるために会社に勤めたり、世界を旅したり、軍隊に入ったりと学ぶこと以外にも社会経験を積ませる環境があります。受験のハードルは低いですが、卒業までに厳しいテストが多く待ち受けています。何のために大学にいって学ぶのかを見つけてからいくため、もともと学習意欲は高く、卒業生の質も高くなるのは当然です。日本のように大学に入ってからウロウロするようなことはありません。

  • 4 求められるのは違いを刷り合わせるコミュニケーション能力

テストは基本的に論述です。知識を咀嚼して意見を書いていく能力が強く求められます。日本のように『19XX年に誰が何をしたか』などといったことなど覚えるには値しません。覚えるべきは『当時の武将はなぜそのタイミングでその戦術を選択したのか』です。覚えることは重要ですが、覚えるべきは原理原則だけでよく、詰め込んだ知識を解釈して表現する力、他人に自分の考えを伝える力の方が大切であるという共通認識があります。そうなれば必然的にコミュニケーション能力は育成されますし、まとまった考えを表現することで自分の認識を深く掘り下げる力もつきます。日本のように全員に同じ答えを強要し、同じ答えが出ることに正解をつけるようではガラパゴスになる温床になって当然です。


自己教育の真の方法は、すべてのことを疑ってみることである。
ジョン・スチュアート・ミル


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何を学ぶのかを自分で考えなければ本気で学ぶことはできない

社会において必要な最低限の知識については大きく変わることはありませんが、社会が変化をしていけば当然、それに応じて教育内容も変わっていかなければなりません。学ぶということにも時代にあった変化がなければ、社会とのズレが生じてしまうからです。学びに関する部分を社会からの正確なフィードバックを得られていないのは構造上の欠陥です。学校において好成績だった人間が必ずしも社会で能力を発揮できるわけではない現実は誰の責任なのでしょうか。

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

1 教えるということに科目は無い

仕事において必要なことを一番良く知っているのは、その社会にいる人です。それぞれの仕事に必要なことはいわゆる学校で教えられる教育科目などで割り切れるものではありません。教えられた教育科目を組み合わせながら仕事をしていかなければならないなら、その枠組み自体も変えることで社会へのアウトプットがしやすくなるならそうすべきです。そういった意味でやはり教育は学校だけに押し付けるものであってはなりません。『必要だと思うこと』が実際のその社会に身を置いたことのない人が恣意的に決めなければならない状態はまさにシステムの欠陥なのです。教育の場から学んだことを使う現場を離れすぎている現実は何も教育界だけの問題ではありません。

2 何を学ぶのかを考えさせる場所

現在、学校で口を開けて座っている子供たちが増えているのは、自ら学ぶ気になっていないからに他なりません。大半の子供たちがテストの点数ばかり追いかけるのも、親が喜ぶ合格や自分の褒美のためでありゴールが学んだ知識を社会に活かすことに繋がっていないからです。皆、目的も見えないまま学ぶことがどれほど苦痛かは身をもって学んできたはずですし、そもそも実際に学んだことを活かす現場を知らずに学びに対しての必要性を感じることや興味が出てくるはずもありません。社会に出て初めて勉強をしておけばよかったと気づくなら、社会と接する機会をもっと子供たちに作ればいいだけのことです。

3 伝えなければ継続することができない

昔で言う寺子屋が機能したのは働いている人がすぐ傍にいたからです。今では子供は大人がどのように働いているか知る由もありません。そういった構造こそが継続的に社会を発展させていこうとする意志をうばっているのだと思います。後継者がいなければその社会がいかに発展していても、いずれ間違いなく廃れて生きます。次を育成する義務は個人ではなく社会全体にあるのです。継続する意志のある大人は世代の縦横関係なく自分のしていることを伝えていきます。伝えることによって異業種や年代を超えて学び、自らの取り組みに活かすことができることを知っているからです。

4 必要なのは制限よりもマッチング

同じ人が同じ環境に閉じこもってお互いが疑心暗鬼になっている仕組みは構造的な欠陥であり、数々の非効率を生み出す原因になります。そんな原因も教えたい人と学びたい人に結び付けていく仕組みを作れば解決できます。教育に対して時間的にも場所的にも規制をかけて制限されているを取り払うことで、お互いの壁を取り払い社会を継続的に発展させていくための『接点』を作っていくことができるようになります。学ぶ場所がいたるところにあれば、その気になる人が、いきなり出てきてもおかしくありません。そしてその情熱が学びを加速させて社会を引っ張っていく牽引力になる可能性は誰にも否定できないのです。


教育には目的がなければならない。
教育それ自体は目的ではないからだ。
シビル・マーシャル

社内失業、社内ニートはなぜ急増したのか - 社内失業と呼ばれて はてなブックマーク - 社内失業、社内ニートはなぜ急増したのか - 社内失業と呼ばれて
自分でWEBサービスを作りたいと思っている人へ はてなブックマーク - 自分でWEBサービスを作りたいと思っている人へ

とりあえずやってみる方が得られるものは大きい

何か新しいことを始める時、大きく分けて2通りのパターンがあると思います。

A とりあえず始めてみて、やりながら学ぶ。

何も考えないでやり始めるため、多くの問題にぶち当たります。失敗を繰り返してなかなか前に進むことができません。しかし、上手くいかなくてもその失敗から学ぶことで次に繋げることができますし、なにより経験値がどんどん増えます。動きに無駄も多いですが、その経験自体が活きたノウハウになります。

B いろいろ調べ、頭で理解してから始める

なにも考えないときよりも問題を事前に予測し排除しておくことができますが、それはすべてが机上の空論でしかありません。経験が少ないときは準備するために膨大な時間が生じますし、抜けも多いです。シュミレーションにおいても実際に起こることとの齟齬が多く、考えた時間や事が無駄になりやすい傾向があります。

チーズはどこへ消えた?

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1 なんにせよ始めてやることには必ず無駄が生じる

始めてやることには必ず無駄が発生してしまうものです。失敗を繰り返すので無駄が生じますし、準備にも無駄が生じます。折衷案でその行動にかかるコストと準備にかかるコストを天秤にかけて少ない方と採るにしてもその時間すら無駄になる可能性もあります。どの道を選択しようが無駄が生じるなら机上の空論が続けるよりも、沢山壁にぶつかって経験を積んでいく方がシンプルです。あれこれ考えず、とりあえず始めてみる方法が一番迷うというロスが少ない分効率的ともいえます。

2 完璧な準備など誰にもできない

ものは用意されなければ話を先に進めることはできません。無いものについて語ったところで何もすることはできないですし、たとえどれだけシュミレーションがなされたとしても、あらゆるものごとは動き始めないと分からないところも多いものです。ですから、準備するにしてもとにかく「たたき台」を作るということをしなければ何も進みません。とりあえず、がむしゃらでも構わないのでやってみることです。そこから初めて建設的な批評ができ改善、改良すべき点が『見える』ようになるのです。

3 試行錯誤という学び方

「たたき台」を作る前から批評家になってしまっては、永遠に目標に達成することなどできません。どのようなことでも不完全な「たたき台」からすべては始まります。始めは話にもならない幼稚な「たたき台」かもしれません。しかし、その幼稚な「たたき台」を作って一歩踏み出すことが重要なのです。紆余曲折視しながらも『たたき台』に修正を加え続ければ誰も必ず目標に近づくことはできるのです。昔は設計図のないものでも、手を加えながら色々試行錯誤を繰り返して作ってきました。歴史上の偉大な一歩は、とりあえず不完全なりに始めてみようとすることから生まれています。

4 夢は描き始めた時点で経験が積まれていく

漫画家になりたいならマンガを描く。歌手になりたいのなら歌う。カメラマンになりたいなら写真を撮る。何もしないまま、ああだこうだ考えたり話をしたりするのは、始めてからでもできることです。それよりも、どんなに不細工で笑われてしまうものでも結構ですから「たたき台」を創ることからはじめてみましょう。批評を受ければ改良すればいいのです。誤まっていれば反省すればいいのです。とりあえず進んでみた先には、何もしなかった自分では得られなかった何かがあるはずです。



試すことそれ自体に失敗はない
デイル ドーテン


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年齢に拘らない留年制度が社会を変える

国は国民の最低限度の文化的(知的)生活を保障しなければなりません。「教育を受ける権利」がそれにあたります。教育基本法が、教育の機会均等を定め、義務教育を無償にしているのはそのためです。裏を返せば義務教育で習ったことのすべてを修得しても、最低ラインの生活をすることしか保障していないということです。義務教育は最低限の暮らししか保障しないのです。しかし、義務教育には留年がありません。年齢に応じてどれほど成績が悪くとも進級します。つまり義務を果たす能力を得ないまま卒業させることを暗黙に容認しているとも言えます。これは子供も親も教師も同罪です。

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

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1 教育を受けさせる『だけ』になっていないか

義務を果す能力がない子供達を社会に送り出すことがどれだけ問題を生むのかは、皆が想像しなければなりません。必要な知識を身につけていない子供本人はもちろんのこと、その子供を受け入れる社会の人も苦しむことになります。現在、そんな義務教育のツケは大学受験や就職のときの浪人という形で集約されています。巻き戻す時間が長ければ長いほど修得に時間がかります。大学で高校の内容を教えるのは許容できても、中学の内容まで遡ると本来学ぶべきことにすらたどり着けません。この教育に関する負担は本来誰が背負うべきなのでしょうか。

2 年齢に拘らなければすべてが解決する

この問題の根底には年齢と学習内容が強くリンクしていることにあります。大人になってからも年齢=経験というリンクはありますが、これが当てにならないことは誰もが知っているところだと思います。つまり、年齢に拘りすぎて、本来あるべき習得することに対して軽視しているところに問題があるのです。それを解決するのが留年なのです。

3 留年のメリット

留年のメリットは年齢管理という概念を変えてくれます。同一性が失われますので多様性のある社会に対して抵抗力が付きますし、許容度が増します。また、進級に必要な学力以外の部分の体力、指導力など他の項目に対しても『認める』ようになれば歪んだ同質性を求めることはなくなります。そうなれば義務自体は何かを問われるようになります。教育と社会の間にある義務が真剣に模索され始めれば、緊密にリンクし始めるようになるのだと思います。

4 重視すべきは入口ではなく出口

学校でもっと勉強しておけばよかったと思う人は多いです。この後悔は留年という制度が広く世の中に受け入れられれば解消されます。卒業するのが『当たり前』はもうやめにした方がいいと思います。必要な知識を身につけていない場合は出来るまで留年させる。留年は、学習するために学校があるという目的がはっきりさせることで、人材を受け入れる社会の側の負担も減るはずです。年齢以上の知識を持ったスーパースターを探す手間も省けますし、誰でも何処でも相応の能力をもった人がいれば、社会全体として機能しやすくなるのではないでしょうか。


義務が権利を作り出すのであって、権利が義務を作り出すのではない。 
シャトーブリアン

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