レッテルを貼りつけることは思考停止すること
もともと「戦い」には「正義」はつきものですが、絶対的な正義にはほとんど出会えません。立場や環境などから、大抵それぞれに言い分があって善悪をきっちり割り切れる場合などほとんどないからです。「正義は我にあり」のほとんどは争いの理由として作られます。正義を貫き通すには、お互いの「正義」を賭して戦わなければならないのです。
- 作者: 郷原信郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/02/19
- メディア: 新書
- 購入: 9人 クリック: 139回
- この商品を含むブログ (73件) を見る
1 正義を守るために失うもの
自己絶対化がつきまとうと「妥協」することなく争いは続けられます。こちらにも正義があって、相手にも正義はあるという考え方を許容できる余裕がなければどちらかが倒れるまで争い続けなければなりません。そして、それぞれの「正義」のために沢山のものを失います。自分の正義を相手に知らしめた後、何も手元に残らなかったのでは意味がありません。けっして「正義」という考え方が間違っているというわけではなく、絶対化して折り合わない姿勢が問題なのです。
2 どちらにもそれなりの正義がある
グレーゾーンに悪のレッテルを貼ることは『正しい』ことなのでしょうか。自分の思っている正義以外は認めないのは子供の我侭となんら変わりません。相手の正義の中にも切り捨ててはならない部分が存在することを無視するのは互いにとって大いに遺恨を残すことになります。「正義」はあくまで手段であって目的となってはならないのです。10人いれば10の主観に基づいた認識と判断があります。それらを埋めるためにお互いが「正義(と思われる)」方向に進めるため、説明し、議論し、妥協する労力を惜しんではなりません。
3 自分の正義を言い訳にしないために
センセーショナリズムに乗っかって、作られた正義に扇動されたナチスの例もあるぐらいです。正しいと思われることは、あくまで思われることに過ぎません。「善悪」の二者択一は非常に楽です。しかし、表面的なことに対して思い込みや先入観で判断し、白黒つけてしまっては不本意な争いを続けなければならなくなります。争いの果てに自分に言い訳しないためにも、自分以外の正義の理解のために労力を費やすことを厭わない姿勢は崩さない方がいいと思います。意見の相違を埋めるためには相当の労力も費やされます。しかし、その掛かったコストが正しさを争うコストよりも少ないならやるべき価値は大いにあるはずです。
悪い奴には三種類ある。
悪いことをする奴、悪い事を見て見ぬふりする奴、正義を振りかざす奴。
田中芳樹
流出犯の自白と、2つの事件の混同 - リアリズムと防衛を学ぶ
尖閣ビデオ流出事件で考えたこと - 藤沢数希 : アゴラ - ライブドアブログ
sengoku 38を支持する人=仕事できない人 - モトログ
http://anond.hatelabo.jp/20110401075853