sadadadの読書日記

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何を学ぶのかを自分で考えなければ本気で学ぶことはできない

社会において必要な最低限の知識については大きく変わることはありませんが、社会が変化をしていけば当然、それに応じて教育内容も変わっていかなければなりません。学ぶということにも時代にあった変化がなければ、社会とのズレが生じてしまうからです。学びに関する部分を社会からの正確なフィードバックを得られていないのは構造上の欠陥です。学校において好成績だった人間が必ずしも社会で能力を発揮できるわけではない現実は誰の責任なのでしょうか。

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

1 教えるということに科目は無い

仕事において必要なことを一番良く知っているのは、その社会にいる人です。それぞれの仕事に必要なことはいわゆる学校で教えられる教育科目などで割り切れるものではありません。教えられた教育科目を組み合わせながら仕事をしていかなければならないなら、その枠組み自体も変えることで社会へのアウトプットがしやすくなるならそうすべきです。そういった意味でやはり教育は学校だけに押し付けるものであってはなりません。『必要だと思うこと』が実際のその社会に身を置いたことのない人が恣意的に決めなければならない状態はまさにシステムの欠陥なのです。教育の場から学んだことを使う現場を離れすぎている現実は何も教育界だけの問題ではありません。

2 何を学ぶのかを考えさせる場所

現在、学校で口を開けて座っている子供たちが増えているのは、自ら学ぶ気になっていないからに他なりません。大半の子供たちがテストの点数ばかり追いかけるのも、親が喜ぶ合格や自分の褒美のためでありゴールが学んだ知識を社会に活かすことに繋がっていないからです。皆、目的も見えないまま学ぶことがどれほど苦痛かは身をもって学んできたはずですし、そもそも実際に学んだことを活かす現場を知らずに学びに対しての必要性を感じることや興味が出てくるはずもありません。社会に出て初めて勉強をしておけばよかったと気づくなら、社会と接する機会をもっと子供たちに作ればいいだけのことです。

3 伝えなければ継続することができない

昔で言う寺子屋が機能したのは働いている人がすぐ傍にいたからです。今では子供は大人がどのように働いているか知る由もありません。そういった構造こそが継続的に社会を発展させていこうとする意志をうばっているのだと思います。後継者がいなければその社会がいかに発展していても、いずれ間違いなく廃れて生きます。次を育成する義務は個人ではなく社会全体にあるのです。継続する意志のある大人は世代の縦横関係なく自分のしていることを伝えていきます。伝えることによって異業種や年代を超えて学び、自らの取り組みに活かすことができることを知っているからです。

4 必要なのは制限よりもマッチング

同じ人が同じ環境に閉じこもってお互いが疑心暗鬼になっている仕組みは構造的な欠陥であり、数々の非効率を生み出す原因になります。そんな原因も教えたい人と学びたい人に結び付けていく仕組みを作れば解決できます。教育に対して時間的にも場所的にも規制をかけて制限されているを取り払うことで、お互いの壁を取り払い社会を継続的に発展させていくための『接点』を作っていくことができるようになります。学ぶ場所がいたるところにあれば、その気になる人が、いきなり出てきてもおかしくありません。そしてその情熱が学びを加速させて社会を引っ張っていく牽引力になる可能性は誰にも否定できないのです。


教育には目的がなければならない。
教育それ自体は目的ではないからだ。
シビル・マーシャル

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